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吉井淳二画伯を偲ぶ会展

2005年1月18日〜30日
花籠
宮崎を第二の故郷と親しんでいただいた吉井淳二画伯が、昨年十一月二十三日に多くの方に愛しまれながらお亡くなりになりました。吉井画伯は青木画廊をこよなく愛していただきました。心から残念でなりませんでした。花籠は画伯九十歳の記念に描いて頂いた作品です。画伯の作品31点と共に思い出の写真、ビデオを見ながら、画伯を偲びたいと思います。是非お誘いの上ご来場下さい。
吉井淳二画伯略歴
1904年
鹿児島県末吉町に生まれる
1922年 海老原喜之助とともに上京し、川端美術学校にて学ぶ
1929年
東京美術学校西洋画科を卒業、二科展に4回目の入選、渡仏
1932年
帰国する
1940年
紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品
1964年
日本芸術院賞を受賞、受賞作が国立近代美術館買上げとなる
1976年
日本芸術院会員
1978年
ニ科会理事長に就任
1981年
サロン・ドートンヌ会員となる
1985年
文化功労者に顕彰さる
1989年
文化勲章を受賞
2004年 11月23日死去、享年百歳

吉井淳二画伯の死を悼む

(有)青木画廊代表取締役 青木脩
 吉井画伯の満百歳をお祝いする会のご案内を頂いたのが、昨年の1月上旬であった。
 その二、三日後に敦子奥様からお電話を頂き、吉井先生はお元気で絵を描いていると聞きました。ところがその数日後に、南日本新聞社の事業部から速達で、先生が肺炎を患い、会は急遽中止との手紙が届きました。そしてその数日後に、この度の訃報がもたらされました。残念でなりません。
 五年前の画伯95歳の時に、画伯のお元気な姿に接して「画伯はこの調子で行けば百歳まではお元気ですね」と申し上げたところ、画伯は「青木さん、この調子で行くと百歳まで大丈夫だよ」と応えられました。一瞬、大変失礼な事を言ってしまったと後悔しましたが、画伯は何時もの慈愛に満ちた笑顔でした。今はその笑顔が忍びがたく悲しい。

 私はこれまで、吉井先生からのご厚情に対し、どれほどの御恩返しもできなかった不甲斐無さを悔います。
 吉井先生との最初の出会いは、1974年4月4日宮崎空港でのことで、最初の二科展開催の展示指導と、翌日のオープン・テープカットのための来宮の時でした。それ以来、三十年にわたる温かいご指導とご親交を頂きました。
 思えば、1973年、私の妻の恩師であった野口徳次先生(元県立泉ヶ丘高校美術教諭・元都城市立美術館館長)から依頼を受け、二科展を宮崎で開催することになり、青木画廊が一切の責任をお引き受けした事がきっかけでした。当時、ニ科会長は東郷青児画伯でしたが、吉井先生は東郷画伯の秘書役でもあり、二科会の実務者でした。最初の二、三度は東郷先生との折衝でしたが、実務的な事は吉井先生と打ち合わせるようにと、吉井先生を紹介されました。そのため、以後、吉井先生とは電話ではありましたが、度々のご指導をお受けしました。それだけに、空港でお会いした時には、すでに親しい間柄でもあったかのように優しく接して頂いきました。
 吉井先生はそれまでの半年のご指導で、私のような一民間人が二科展を引き受ける事に躊躇されており、東郷先生と私に再考するよう幾度か説得されました。しかし、それは決して失敗を恐れての忠告ではなく、私への経済的負担を考慮しての親心であり、二科展が大変な事業である事を優しく説明されました。曰く、展覧会とは労多く長期の日時や金銭的にも多大な犠牲を覚悟しなければできない事業である事や、「継続は力」と継続できないのであれば文化を語る資格はない事、そして美術文化も長い歴史の上に築かれる貴重なものであり、また、それが文化であり、総合的文化の重要性を説かれました。その意味で、二科展だけの問題ではなく、広く世界を見据えた文化の重要性をも聞かせて頂きました。
 お二人の思想を知り、私は「どんな事があっても宮崎で成功させます」と言ってしまいました。画伯は、私の決心に当惑されながらも快く応援して頂き、以後、何度となく接する間に、私にとって父親のような暖かい存在になっていきました。共催を引き受けて頂いた当時の宮崎日日新聞社社長の宮永真弓氏が、生前の私の父と早稲田大学剣道部で一緒であった事も幸しましたが、宮崎日日新聞社の全面的なご支援を得た事は、吉井先生のお人柄が絶大であった事は言うまでもありません。

 当時、宮崎には美術館もなく、日展や中央の美術展覧会など皆無に等しい状況で、それだけに大きな期待に応えるべく、吉井先生の宮崎に対する情熱は「宮崎を第二の故郷」と公言するほどに熱く燃え、毎年、宮崎に来られて後進の指導にあたるなどの労を頂き、宮崎の美術文化向上に尽くされました。そのおかげで、多くのニ科入選者を得るに至り、ひいては他の美術団体に出品する方々をも大いに刺激する事となりました。その過程が地域美術文化の向上を相乗させていくという深い思慮があった事を後で知らされました。
 更に、文化とは地道な継続作業であり、若い世代を育てるだけではなく、十年間隔ごとの世代を絶やしてはいけない事も教えられました。そして当時の宮崎県全体の学童美術展覧会が一つもない事を指摘され、宮崎ニ科ジュニア展覧会を昭和53年に開催する道筋を作ってくださいました。吉井先生の人格に触れた、宮崎はまゆうライオンズクラブ会員一同の全面的な協力を頂き、ほぼ毎年のように吉井先生自らが、幼児から高校生までの指導と審査をして頂きました。
 吉井先生は1976年に芸術院会員に推され、更に1985年に文化功労者に顕彰され、1989年には文化勲章を受けられ、日本のトップになられたのでした。それでも吉井先生は、病気のために一度だけ断念された時はありましたが、毎年審査に来て頂きました。文化勲章受賞者である吉井先生から学童の指導を頂いたのは、全国でも鹿児島県と宮崎県だけでした。
 また、当時の宮崎県知事松形祐尭氏に県立美術館建設を強く意見されもしました。
 更には、鹿児島には若く将来性のある絵描きをパリに一年間留学させる制度ができており、多くの人材が育っている事も話されました。私にもその制度を宮崎に作るようにと、鹿児島県教育委員会や南日本新聞社事業部にもわざわざ同行して頂き、たくさんの資料とお話を頂き、計画推進のお力となって頂きました。昭和61年には趣意書もお作り頂き、松形祐尭宮崎県知事、長友貞蔵宮崎市長、塩見一郎宮崎商工会議所会頭、宮永真弓宮崎日日新聞社社長、等の発起人までお引き受けして頂きましたが、残念ながら私の努力が足りず実現しませんでした。しかし後に、平嶋周次郎宮崎日日新聞社社長と松形祐尭宮崎県知事のご尽力により、宮崎にも絵画留学の制度ができました。
 昨年で八年目となり、八名の芸術を志す若い人々が派遣されました。吉井先生も生前は誇りに思っておられました。

 全国がリゾートブームに沸く頃、宮崎県は国の第一号リゾート法に指定されました。
 そして、フェニックス国際観光の佐藤棟良社長が、シーガイアを併設したフェニックス・リゾート株式会社が開業しました。佐藤棟良社長の発案により、全リゾート施設の壁面を飾る絵画を、地元作家の作品で埋め尽くす企画を立てられ、『シーガイア大賞展』を創設されました。吉井先生には審査委員長を引き受けて頂き、作品募集を鹿児島・宮崎に限定しましたが、958点もの多くの応募があり大成功でした。これは吉井先生が審査委員長を引き受けて頂いたおかげだと感謝しております。入選作品は全て買上げられ、現在も施設内に展示されています。また、その時の大賞受賞者である湯浅義明先生が昨年の海外留学賞を受賞された事を吉井先生にお話しましたところ、大層喜ばれた事も忘れられません。

 戦後の混乱が収まらない世相の中、宮崎で最初に開催された宮崎県展(現在の宮日美術展)の第一回審査員として、須田国太郎画伯と吉井先生のお二人が台風の中を押して審査されたとお聞きしました。また、吉井先生は、二年続けて審査員をお努めになられたともお聞きしました。
 数え上げれば限がありませんが、戦後の宮崎美術文化の発展に多大な貢献をされた事に感謝し、画伯の安らかな御冥福と、御遺族の御多幸を合わせてお祈りいたします。
   
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